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祖父の日記、時を超えて届く言葉。

昨年の秋、祖父が肺炎で息を引き取った。95歳だった。
ずっと健康で、元気で、余裕で100歳を超えると思っていた。
しかし、「ある日突然に」というのは、まさにこのことだった。

祖父は本当に立派な人で、大好きな世界一尊敬する人物だ。
この世を去っても、その事実は揺らぐことはない。

自分を含め、孫たちは皆、祖父を敬愛していた。

私は上京した後も、公私に関わらず足繁く祖父母の元を訪れた。
同じ市内に住んでいたこともあり、赤ちゃんの頃からの接触が多かった私と弟は、孫の中でも特に可愛がってもらっていた。

祖父の書いた句

祖父は定年まで日本国鉄(日本国有鉄道、現JRグループの前身)でエンジニアとして活躍し、定年退職後は先見の明ある兼業農家として活動し、町内会をはじめとする数々の役職を歴任し、生まれ育った町のために生涯を捧げた。

世代のせいもあるが、祖父の成し遂げた出来事は世界のインターネット上にほとんど記されていない。それが寂しかった。そこで、孫の私が少しでも、福島県郡山市に生きた祖父・濱津嘉昭のことをWebに残そうと思う。

この記事とは別に、祖父について執筆していたが、鮮明に書こうとすればするほど、途中で感情が溢れ、涙で筆が止まってしまった。

まずはリハビリとして、この記事を書いている。

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祖父は本当に誠実でまめな人だった。
祖父が記した生前の日記が大量に残っている。

毎日欠かさず書いていた日記だが、ここ数年は空欄が増えていた。
さすがに90歳を過ぎると、書くのも大変だったろうと容易に想像できる。

20年以上の日記が残っているはずだが、数冊が見当たらない。
母にも協力してもらい、今日も1冊見つけた。
次に帰ったら私が残りを探すつもりだ。

いつか祖父が亡くなった時に
日記を読むと心に決めていた。

事務的な記録も多いが、
あの日、あの時の祖父の考えが記されており、
知らなかった生前の祖父の姿を知ることができる。

同時に、ここに祖父の一片があると思うと
涙が止まらず、読むのが難しくなる。

だから、読んでいる間は悲しみを考えないようにしている。

それでも、孫の私に関する言及を見つけると手が止まり、
涙があふれるのは堪えようがなかった。

今は、私が高校生だった頃の3年分の日記を読んでいる。

中学卒業と第一志望の高校に合格した私について、祖父がこう記していた。

2001年3月13日
中学校の卒業式である。裕市君も晴れて卒業本当にお目出とう。
高校受験を控えて又心を引き締めて頑張ってほしいものである。
母子家庭のハンディなど吹き飛ばし未来に向かって前進あるのみである。
夕方卒業のお祝いの電話をしたら風邪を引いたとのことである
大事にしないと本番で困ると心配する

2001年3月19日
朝から良い天気となる。
高校入試の発表なので、11時に裕市のアパートに行き
郡山東高校に正午近く行き発表を待つ。
幸い合格となり気分も晴れやかに帰ってくる。
努力が実った嬉しさと家族の喜びはひとしおである。
夜は裕市の合格通知書と通信箋を見て乾杯する。

祖父の3年日記2001年より引用

日記の力は、本当にすごい。

孫が泣きながらこれを読んでいるなんて
祖父は想像もしていなかっただろう。

じいちゃん、たくさん日記を残してくれてありがとう。
天国に行っても、日記からたくさん学ばせていただきます。


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